武者絵で有名な岐阜・中津川の画家『前田青邨』とは
前田 青邨
まえだ せいそん
明治18年(1885年)の1月27日、岐阜県中津川市にある乾物屋の次男として生まれる。
小学生の頃から絵を描くことを得意とし、将来は画家になる事を夢見ていたと言われている。
史学においても学があり武者絵において、鎧兜の精密かつ独特な描写で有名です。
青邨の名前の由来は?!
明治31年(1898年)上京し現文京区湯島4丁目にある京華中学校に入学しますが、青邨は病を患い退学する事になります。
明治34年(1901年)身体が回復した青邨は再び上京し、親戚の尾崎紅葉から紹介され、梶田半古(かじた はんこ)の塾に入門します。
翌年、明治35年(1902年)に師である半古から『青邨』の雅号を授かることになります。これが前田青邨の名前の由来となります。
また、同塾の塾長としては、あの有名な小林古径(こばやし こけい)がいます。古径は青邨にとって良きライバルであり、尊敬する先輩でもありました。
ちなみに、古径のように半子の弟子たちは「古」の字を授かる事が多かったのですが、青邨以降からはその習慣は無くなりました。
紅児会(こうじかい)に入会する
紅児会とは明治31年(1898年)に安田靫彦、磯田長秋、小山栄達達によって結成された組織の事を言います。結成当初は紫紅会という名前でしたが後に改名され、『紅児会』となりました。
組織の活動は主に歴史画等の研究を行い、作品を生み出す事でした。結成から9年後の明治40年(1907年)青邨も組織に入会をし、その組織の中で時代を代表する若手の画家達と切磋琢磨する事で青邨は大きな刺激を受け成長していったと言われています。
歴史画と青邨
歴史画とは、文字通り歴史上の出来事や、物語を題材とした絵画・作品の事を言います。
日本では明治時代に日本や中国、それからインドなどの歴史上の出来事を題材に多数描かれるようになりました。その後、松岡映丘や小堀鞆音、それから紅児会の創設者でもある安田靫彦たちに引き継がれて盛り上がりを見せてゆきます
日本での歴史画は第二次世界大戦後はその人気に陰りが見え始め、次第に衰退していくことになります。
国学院大学の聴講生でもあった青邨は歴史に対しての知識もあり、作品にも歴史を題材としたものが多く目立ちます。代表作でもある『真鶴沖』においては、源平合戦における石橋山の戦いで敗れた源氏の兵士が、小船で敗走する海上のシーンを描いています。
武士が見につける甲冑は青邨独自の色合いで描かれ、異質を放ち非常に評価の高い作品となっております。
前田青邨のプロフィール
読み方 | まえだ せいそん |
本名 | 前田廉造 |
出身地 | 岐阜県中津川市 |
生年 | 1885年1月27日生まれ |
没年 | 1977年死去(92歳) |
代表作と保管場所 |
前田青邨の落款印・サイン
前田青邨が作品に使用したサインの一覧です
サイン:青邨
落款:青邨
前田青邨の作品買取価格
前田青邨が描いた作品の買取価格です。