名古屋の文人画・南画界を代表する重鎮『中林竹洞』
中林 竹洞
なかばやし ちくとう
1776年、竹洞は名古屋市桑名町で産婦人科を営む中林玄棟の子として生まれます。
幼少の頃から画を描く事を得意とし、14歳の時には既に山田宮常の下で画を学び始めました。翌年、かの有名な名古屋の大富豪『神谷天遊』にその才能を認められ、天遊の下で画を学ぶようになります。
質屋や醸造業で巨万の富を築き、莫大な資産をもつ天遊の下には中国から仕入れた多数の明清画があり、竹洞と同じく門下生の山本梅逸と共にそれらの画の臨模を命じられます。
明清画の臨模を複数こなしていくなかで、その技法を学び中国絵画への造詣を深める事になり、名古屋を代表する南画の第一人者となるのが中林 竹洞です。
臨模ってなに?
臨模とは『りんも』と読み、書画や絵画などの原物を横に見ながら、そっくりに書き写す事を言います。
南画ってなに?
南画とは江戸時代後期に派生した絵描きの流派の一つです。中国の元・明の時代にあった南宗画(なんしゅうが)に影響を受け日本独自に改良を加えたものを言います。文人画とも言います。
神谷天遊とはいったい何者?!
天遊は名古屋の鉄砲町で質屋や醸造業を営み巨万の富を築いた実業家です。
天遊は中国絵画のマニア・コレクターであり、多数の明清画を所有しておりました。また、それを門下生や自分を慕う者たちへ臨模させる事で、結果として名古屋の南画界の絵師たちの成長と発展に大きく貢献する事になりました。
ちなみに、竹洞の名前の由来は天遊と共に万松寺に出向いたとき見かけた李衎(リカン)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞という名を授けられたといわれています。このように、天遊がに竹洞達に与えた影響は計り知れません。
梅逸と共に京都へ進出!!
1802年に神谷天遊が死去すると、弟弟子の梅逸と共に京都へ赴き、京都画壇への進出を図りますが、そのハードルは高く、一度は失敗に終わります。竹洞の父の死をきっかけに二人は再び名古屋に戻り、1832年に再び京都へ進出してからは次第に人気が出てきた二人は高年収へと成りあがっていくことになりました。
中林竹洞のプロフィール
読み方 | なかばやし ちくとう |
本名 | 中林成昌 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年 | 1776年生まれ |
没年 | 1853年死去 |
代表作と保管場所 |
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中林竹洞の落款印・サイン
中林竹洞が作品に使用したサインの一覧です
落款:成昌之印
落款:字伯明
中林竹洞に関係のある絵師・作家
中林竹洞とゆかりのある人物の一覧です