尾張南画の巨匠『山本梅逸』とは
山本 梅逸
やまもと ばいいつ
1783年、名古屋市中区大須で彫刻師である山本有右衛門の子として生まれる。幼い頃から絵を描く事が好きな子だったといいます。
13歳で父がこの世を去り生活は困窮するも、父の後は継がずに、母の教育熱心だったこともあり自分自身の絵の道に進む事を選ぶ。
梅逸は、地元の浮世絵師でもあり狩野派の山本蘭亭に最初に絵を学ぶ。その後、蘭亭は梅逸の画才を早い段階で見抜き、四条派の張月樵の下で学ばせることになりました。
梅逸の描く絵は繊細で優麗な画風を築き上げた一方、描き込みが強く、乱暴に描いたような荒い筆致が多いと批評されることもあります。
花鳥図を描くことを特に得意とし、「花鳥図屏風」を描きあげた事も広く知られています。
尾張南画の巨匠と呼ばれた由縁
当時、尾張名古屋の大富豪として有名な『神谷天遊』の下で梅逸は修行をする事になります。
中国絵画のコレクターであった神谷天遊の下で同じく門下生の兄弟子でもある中林竹洞と共に修業を重ねることで、梅逸達は中国絵画・南画への造詣を深めていくことになります。
南画とは?
南画とは江戸時代後期に派生した絵描きの流派の一つです。中国の元・明の時代にあった南宗画(なんしゅうが)に影響を受け日本独自に改良を加えたものを言います。文人画とも言います。
神谷天遊とはいったい何者?!
宝永7年、三河高須村生まれ。名は元等、字は斎卿、通称は次平、または永楽屋伝右衛門。名古屋の鉄砲町で質屋や醸造業で巨万の富を築く。
しかし、天遊はただのお金持ちではありませんでした!!!天遊は中国絵画のマニア・コレクターであり、多数の明清画を所有しておりました。また、それを門下生や自分を慕う者たちへ提供することを惜しまず、結果として名古屋の南画界の発展に大きく貢献したと言っても過言ではありません。
ちなみに、名前の由来は天遊と共に万松寺に出向いたとき見かけた王冕の「墨梅図」を見て感銘を受けた事から梅逸の号を授けられたといわれています。天遊が梅逸に与えた影響も計り知れません。
挫折から巻き返す底力!!
1802年にパトロンであった神谷天遊が死去したのち、兄弟子の中林竹洞共に京都へ赴き、京都への進出を図るが京都画壇の壁は厚く思うようにうまくいきませんでした。その後、中林竹洞の父の死をきっかけに二人は再び名古屋に戻ることになります。
1832年に再度京都へ赴き書画会への出店も次第に多くなるにつれ京阪で人気が出てきた二人。その時の梅逸は非常に儲かり裕福となったようです。
山本梅逸のプロフィール
読み方 | やまもと ばいいつ |
本名 | 山本亮 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年 | 1783年11月14日生まれ |
没年 | 1856年2月7日死去 |
代表作と保管場所 |
山本梅逸の落款印・サイン
山本梅逸が作品に使用したサインの一覧です
落款:某逸
落款:亮印
山本梅逸に関係のある絵師・作家
山本梅逸とゆかりのある人物の一覧です