恐るべしビジネスセンス!!江戸画壇の大御所『谷文晁』とは
谷 文晁
たに ぶんちょう
宝暦13年(1763年)、江戸下谷根岸(現在の東京都台東区)に谷麓谷の子として生まれる。
父である麓谷は江戸中期・後期の漢詩人として有名であり、その下で育った文晁も必然的に和歌や漢詩にも講じるようになり、文才を育んでいきました。
12歳になると父のつてで狩野派の加藤文麗に画を学び、その後は渡辺玄対に師事する。
文晁は狩野派、大和絵、南画、北宋画、朝鮮画、更には西洋画まで学び、画域は人物画、山水画、花鳥画、仏画と非常に多彩で幅広い画風を持つ絵師と言われています。
自他ともに認める旅好き
20代のうちに日本各地を旅した文晁は、行ったことのない場所は日本で4~5か所しかないと言われています。
そのフットワークの軽さも講じて、各地に幅広い人脈をもち中でも大阪で出会った『木村蒹葭堂像』は文晁に大きな影響を与えた人物とされています。
寛政4(1792)年には松平定信の近習(きんじゅ)となり、定信の江戸湾巡航に随行したりと行動範囲を広げてゆきます。
近習(きんじゅ)ってなに?
主君の側に使える役、側近のような役職を言います。
文晁の人柄とビジネスセンス
父は御三卿のひとつ『田安家』の家臣であり、文晁も家臣となります。のちに白河藩『松平定信』の近習となり、経済的にも不自由なく安定します。
一方、同年代でもある『葛飾北斎』は貧しい家の出身ながらも功を奏した対照的な人物と言われています。
しかし、ただのお金持ちのボンボンだったのかというと決してそんなことはありません!! 文晁のその商才は驚くほど長けており、今もなお絵師としてのみならず商売人としても評価をされているのです。
具体的に何をしたかと言うと、正月前の大晦日の夜にひとけのない街へ繰り出し、自ら"富士"を扇に描いたものを数10本用意しその扇を落として回ったそうです。次の日の元旦になると人々は扇を見つけ「正月に富士とはなんと縁起のいいことか!!」と喜び、その作者である文晁の名を大勢の人々が知ることになったと言われています。
その他にも床屋で自分の画を描いた扇子をわざと落とし忘れて帰り、その絵を店主や他の客にアピールしたり。芝居を見に行った際には弟子にわざと自分の名前を大きな声でアナウンス「例:文晁先生~!文晁先生はおりませぬか~?」させたり、役者に自分の名前入りの幕引きを贈呈したりと恐るべしビジネスマンです。。。
写山楼と文晁
写山楼は『しゃざんろう』と読み、富士山の眺望が大変良かったためそう名付けられた文晁を師とする画塾の事です。
この塾からは後に大物となる渡辺崋山や立原杏所など多数の絵師を輩出しています。従来からある形式に左右されず、弟子たちの個性を尊重する教育姿勢でした。
弟子思いの師として有名である文晁ですがなかでも、鎖国政策に対する危機感を唱えた渡辺崋山には特段の愛情を注いでいたと言われています。
贋作が多い?
文晁はその性格から、画塾において自分の落款を誰でも自由に使えるよう開放していました。そのため、弟子の相当数が自分の作品に文晁の落款を押し文晁の作品として販売していたと言われています。
購入した物から文晁のもとへクレームが届いたとしても「私の落款があるのなら本物でしょう」と相手にしませんでした。
そのような事情から、落款からだけでは真贋鑑定が難しい作者だとも言われています。
谷文晁のプロフィール
読み方 | たに ぶんちょう |
本名 | 谷正安 |
出身地 | 江戸下谷根岸(現在の東京都台東区) |
生年 | 1763年10月15日生まれ |
没年 | 1841年1月6日死去(92歳) |
墓所 | 〒110-0015東京都台東区東上野6-19-2,源空寺内 |
代表作と保管場所 |
谷文晁の落款印・サイン
谷文晁が作品に使用したサインの一覧です
サイン:鳥文晁。
1811年~1840年頃の作品に使用
落款:文晁
落款:文一印
谷文晁の作品買取価格
谷文晁が描いた作品の買取価格です。