掛軸の歴史と誕生の秘話
1000年以上の歴史がある掛軸には知られざる誕生の秘話があった!!
歴史をさかのぼり掛軸のルーツと現代の掛軸の姿について徹底解説します。
世界で一番最初に誕生した掛軸
時をさかのぼること遥か昔、晋の時代(265年 – 420年)の中国で掛軸は誕生したと言われています。
当時、仏教徒の間では仏像や絵を礼拝の対象として使用していました。しかし礼拝の場所を変更・移動する際には仏像は重く持ち運びに不便、、、そのため仏系の人物、書を描いた絵を持ち運び用に使用していました。
しかし、裸の状態で絵を持ち運ぶと当然ですが絵は痛み、保管も大変。そこで絵を丈夫な紙に張り付け、丸めて桐箱に収納し始めたことが掛け軸の誕生の秘話です。
今でこそ芸術品や美術品としての位置づけが高い掛軸ですが、誕生した当初は仏教徒が使用する礼拝の道具だったのです。
日本に掛軸が来たのはいつ?
前項で掛軸が誕生したのは中国の晋の時代と述べましたが、当時の日本は弥生時代の中頃で中国との貿易は無いに等しく掛軸が日本に掛軸が伝わるのはもう少し後のことになります。
それから約150年後の飛鳥時代(592~710年)になって、ようやく礼拝用の道具として日本にも掛軸が入ってくるようになります。
日本掛軸の発展と歴史
894年に遣唐使を完全に廃止してからは、中国流の掛軸から次第に日本独自の表装へと発展していきます。
この発展が後の大和表装の確立へと大きく貢献をするようになり、日本の掛軸・表装における大きな転換点となりました。
飛鳥時代の日本掛軸について
飛鳥時代の日本掛軸はまだ礼拝用の道具としての意味合いで用いられ、主に仏教徒の屋敷等にありました。
鎌倉時代の日本掛軸について
鎌倉時代の後半になると日本で水墨画という新しいジャンルのものが中国から日本に輸入され、水墨画などの作品を更に美しく魅せるため、かつ補強のため表装が用いられるようになりました。
この頃より、掛け軸は礼拝用の道具としてではなく、水墨画、絵画や書画などの観賞用として扱われるようになりだしました。
室町時代の日本掛軸について
室町時代になると中国から再び大量の水墨画が日本に輸入されるようになり、日本国内で水墨画が大流行します。
あまりにも水墨画が人気となり、購入者数に対して輸入数が間に合わず枯渇します。そのため当時の政府が「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼ばれる日本の芸術家たちに中国の水墨画を真似て追加生産をするように命じます。
政府の指令もあり、日本独自の水墨画は飛躍的に増加し掛軸も日本独自のものへと変化をしていきます。
安土桃山時代の日本掛軸について
室町時代になると日本人なら誰しもが知る有名人、千利休(せんのりきゅう)が「茶の湯」における「床の間」おいて掛軸の重要性を説き、茶道の世界において掛軸が大流行します。
「おもてなし」の観点から、来賓客や季節に合わせて絵柄や内容を変える文化が広まり、同時に掛軸の表装において真、行、草が確立されるようになりました。
江戸時代の日本掛軸について
江戸時代になると掛軸は庶民でも手軽に楽しめるようなものとなり、更に普及を広めます。
江戸時代の掛軸の特徴としては「文人画」の流行があり、江戸時代中期から文人表装と呼ばれる表装形式も登場しました。
知識人や文化人の書いた書や絵の事を文人画と言い、日本人の書いたものは「南画(なんが)」と呼ばれ広く親しまれました。
明治から現代の日本掛軸について
明治時代になると、掛け軸は一般家庭の床の間には必ずと言っていいほど飾られるように一般的なものとなり、日本人の生活様式に深く浸透をしました。
現代は一般住宅の洋式化に伴い床の間のある和室が減少し、掛け軸を飾る人も減少傾向にあります。
掛軸は一般的なものから嗜好品へと変化しつつも未だに和の感性を嗜む人々の間で愛され続けております。
掛軸の歴史要点まとめ
掛け軸の歴史にまつわる要点を簡潔にまとめました。
- 中国の晋の時代に誕生
- 本来の用途は仏教徒の礼拝用
- 飛鳥時代頃に中国から日本に輸入される
- 千利休が茶道における掛軸の重要性を説く
- 江戸時代以降から一般大衆でも掛軸を飾る人が出始める
- 現代は住宅の洋式化に伴い掛軸を飾る人も減少傾向にある