七宝焼きの発展に大きく貢献した名古屋の絵師『織田杏斎』とは
織田杏斎
おだ きょうさい
弘化2年(1845年)11月24日、尾張国名古屋下茶屋町(今の名古屋市中区)で生まれる。父は名古屋を代表する絵師でもある織田共樵(おだ きょうしょう)。息子は織田益吉、織田杏所、織田杏逸。甥は織田旦斎
杏斎は金属の表面に色釉(いろぐすり)を焼きつけて模様を描く伝統工芸『七宝焼き』の改良に努力し、その発展に大きく貢献した事でも知られます。。
七宝焼きとは?
七宝焼きは「しっぽうやき」と読み、銅や銀などの金属の表面にガラス質の釉(うわぐすり)を焼き付ける技法・焼き物の事です。
鮮やかで豪華な色彩に富み、とても美しい焼き物とされています。そのことから名前の由来としては「宝石を材料にして作られたから」「に法華経の七宝のように美しい焼き物だから」等の通説があります。
七宝焼きの起源は古代エジプトで生まれ、技術は年を重ねて進化しシルクロードを経由して中国に伝わり、ようやく日本にも伝わったとされています。
そんな歴史の深い七宝焼きの日本での技術向上、模様の改良に大きく貢献したのが名古屋を代表する絵師「織田杏斎」なのです。
父である共樵に絵を学ぶ
絵に関しては父である織田共樵から学びました。明・清時代の中国絵画の修得に励み、ついには各流派を折衷し、「南北合法」(南宗・北宗画)と呼ばれる一家をなしました。
八事山興正寺に建てられた筆塚
筆塚とは師匠などの死をしのんで,教え子たちが建てた記念碑の事を言います。
愛知県名古屋市昭和区八事本町にある八事興正寺奥の院に杏斎の筆塚があります。
筆塚とは別に墓地は和公園正覚寺にある。
織田杏斎のプロフィール
読み方 | おだ きょうさい |
出身地 | 愛知県名古屋市中区 |
生年 | 1845年11月に生まれる。 |
没年 | 1912年11月24日、68才で死去。 |
筆塚 | 八事山興正寺 |
代表作と保管場所 | |
別名・呼称 | 鎌吉、緑天館 |
織田杏斎の落款印・サイン
織田杏斎が作品に使用したサインの一覧です
落款:杏斎
落款:杏斎
織田杏斎に関係のある絵師・作家
織田杏斎とゆかりのある人物の一覧です